PDACにおける可塑性(Plasticity) ― EPCとMPCの動的相互変換

膵管腺がん(PDAC)の悪性度を規定する中核的概念の一つが、がん細胞の可塑性(plasticity)である。可塑性とは、がん細胞が固定された性質を持つのではなく、環境やストレスに応じて細胞状態を可逆的に変化させる能力を指す。PDACでは、この性質が進展、転移、治療抵抗性を強力に支えている。

EPC ↔ MPC は可逆的に相互変換する

シングルセル解析や系譜追跡研究から、PDACにおけるEPC(epithelial program cells)とMPC(mesenchymal program cells)は、不可逆な別系統ではなく、相互に移行可能な細胞状態であることが示されている。

  • EPC → MPC:浸潤・転移・ストレス耐性の獲得
  • MPC → EPC:転移先での増殖・腫瘍再構築

この双方向性は、EMTとMET(mesenchymal–epithelial transition)が連続的かつ可逆的に起こることに対応している。
その結果、PDAC腫瘍は常に状態の混在した動的平衡を保つ。

MPCは高い浸潤性・薬剤抵抗性を示す

MPC状態のがん細胞は、PDACの進行において特に重要な役割を担う。

既存の研究から、MPCは、

  • ECM分解や細胞運動に関与する遺伝子を高発現
  • 抗がん剤に対する感受性が低い
  • ストレス環境(低栄養、低酸素)に適応しやすい

といった特徴を持つことが知られている。

一方で、MPCは必ずしも高い増殖能を持たないため、治療後に生き残り、環境が整うと再びEPC様状態へ戻ることで腫瘍再発に寄与する。この性質は、PDACが「縮小しても治らない」理由の一つである。

可塑性そのものが悪性度を高める

重要なのは、特定の細胞状態(EPCまたはMPC)そのものではなく、それらを行き来できる可塑性の高さ自体が悪性度を規定するという点である。

可塑性の高い腫瘍では、

  • 治療圧に応じて状態を切り替える
  • 異なる微小環境に迅速に適応する
  • 転移先臓器ごとに最適化された状態を取る

ことが可能となる。

その結果、PDACは単一の治療戦略では制御困難な進化的に柔軟ながんとして振る舞う。

可塑性をどう捉えるか

PDAC治療においては、可塑性を

  • 単に「EMTを抑える」
  • 「MPCを除去する」

といった単純な標的として扱うだけでは不十分である。

むしろ、

  • EPC–MPC変換を駆動するシグナル
  • 可塑性を維持する微小環境因子
  • 状態遷移そのものを制御する転写・エピジェネティック機構

を理解し、可塑性を前提とした治療設計が必要となる。

PDACにおける可塑性は、進展速度、転移、腫瘍内不均一性、治療抵抗性を結びつける中心軸であり、悪性度上昇の根源的要因である。

EMTの基礎 ― PDACにおける可塑性と転移能の獲得

膵管腺がん(PDAC)における腫瘍内不均一性と細胞状態の可塑性を理解するうえで、**EMT(epithelial–mesenchymal transition)**は中核的な概念である。EMTは単なる形質変化ではなく、浸潤、転移、治療抵抗性と深く結びついた動的プロセスとして位置づけられている。

EMTとは何か ― 上皮性から間葉系への変化

EMTとは、細胞が**上皮性(epithelial)**の特徴を失い、**間葉系(mesenchymal)**の性質を獲得する細胞状態変化のプロセスである。

この過程では、

  • E-cadherin(CDH1)などの細胞間接着分子の低下
  • Vimentin、N-cadherin、Fibronectin などの間葉系マーカーの誘導
  • 細胞極性の喪失と運動能の獲得

が段階的に生じる。
PDACでは、EMTはがん細胞の浸潤能・転移能を高める重要な仕組みとして理解されている。

完全EMTよりも hybrid EMT が転移に関与する

かつては、EMTは「上皮性 → 完全な間葉系」への一方向的変化と考えられていた。しかし近年の研究により、完全EMTを経た細胞が必ずしも転移に最適とは限らないことが明らかになってきた。

現在では、PDACを含む多くのがんで、

  • 上皮性と間葉系の特徴を同時に保持する状態
  • いわゆる hybrid EMT(部分的EMT、中間状態)

が、最も高い転移能を持つと考えられている。

Hybrid EMT状態の細胞は、

  • 集団移動(collective migration)が可能
  • 血中循環や転移先での生着能が高い
  • 必要に応じてMET(間葉上皮転換)へ戻る能力を持つ

といった特徴を示す。
この点は、EPCとMPCが共存し、状態が固定されていないPDACの腫瘍生物学と強く一致する。

EMTと可塑性の高さの関係

EMTの本質は、単なる形質変化ではなく、細胞状態の可塑性(plasticity)を高めることにある。

EMTを部分的に獲得した細胞は、

  • 増殖と浸潤を状況に応じて切り替える
  • 治療ストレスに応答して状態を変化させる
  • 微小環境(ECM、サイトカイン)に強く依存する

といった性質を持つ。
この可塑性こそが、PDACにおける

  • 進行の速さ
  • 再発率の高さ
  • 治療抵抗性

を支える分子的基盤の一つである。

重要なのは、EMTが常にON/OFFされる固定的なスイッチではなく、連続的・可逆的な状態スペクトラムである点である。この理解は、EPC/MPCという二分法を超えた、より現実的なPDAC像を提供する。

EMT理解の臨床的意義

EMTを単独で抑制する戦略は、必ずしも臨床的成功を収めていない。しかし、

  • EMTを誘導・維持する微小環境シグナル
  • Hybrid EMT状態の安定化機構
  • EMTと治療抵抗性を結ぶ分子経路

を理解することは、PDACにおける新規治療標的探索の基盤となる。

EMTは、PDACの「進展速度」「腫瘍内不均一性」「転移」「治療抵抗性」を貫く共通言語であり、その正確な理解なしに病態全体を捉えることはできない。

腫瘍内不均一性の重要性 ― PDACにおけるEPCとMPC

膵管腺がん(PDAC)の高度な悪性度を支える本質的要因の一つが、**腫瘍内不均一性(intratumoral heterogeneity)**である。PDACは単一のがん細胞集団からなるのではなく、異なる分化状態・機能をもつ細胞集団が共存し、相互作用することで腫瘍進展と治療抵抗性を獲得している。

EPC(epithelial)とMPC(mesenchymal)の共存

近年のシングルセルRNAシーケンス解析により、PDAC腫瘍内には少なくとも二つの主要ながん細胞状態が共存することが明らかになっている。

  • EPC(epithelial program cells)
    上皮性マーカー(EPCAM、KRT群など)を発現し、比較的分化した性質を示す。
  • MPC(mesenchymal program cells)
    間葉系マーカー(VIM、ZEB1、FN1など)を発現し、高い浸潤性・可塑性をもつ。

重要なのは、これらが別々の腫瘍に存在するのではなく、同一腫瘍内に同時に存在する点である。PDACは固定されたサブタイプではなく、状態が共存・移行する動的な腫瘍として理解されるようになってきている。

サブタイプ間の相互依存が腫瘍進展を促進する

EPCとMPCは単に並存しているだけでなく、機能的に相互依存的な関係を形成している。

  • EPCは増殖能が高く、腫瘍量の維持に寄与する
  • MPCは浸潤・転移・治療抵抗性に寄与する

さらに、MPCが分泌するサイトカインやECM関連因子が、EPCの生存や再増殖を支える一方で、EPC由来のシグナルがMPC状態の維持を助ける可能性も示唆されている。

このように、PDACの進展は単一の「悪性サブタイプ」ではなく、異なる状態の協調によって駆動されるという概念が支持されつつある。

腫瘍内不均一性は治療抵抗性の主要因

PDACにおける腫瘍内不均一性は、治療失敗の根本的原因の一つである。

  • 化学療法に感受性の高い細胞集団が除去されても
  • 耐性をもつ別の細胞状態(特にMPC様細胞)が生き残る

結果として、腫瘍は再構築され、再発・進行に至る。

さらに、治療そのものが細胞状態のシフト(EPC→MPC)を誘導することも報告されており、治療介入が不均一性をむしろ増強する可能性すら示されている。

このため、PDAC治療においては、

  • 特定のサブタイプのみを標的とする戦略
  • 単一経路阻害に依存した治療

はいずれも限界を持つ。

不均一性を前提とした治療戦略へ

現在注目されているのは、腫瘍内不均一性を「排除すべき問題」としてではなく、前提条件として組み込んだ治療設計である。

具体的には、

  • 細胞状態間の可塑性そのものを抑制する
  • EPC–MPC間の相互作用を遮断する
  • 微小環境を含めたシステム全体を標的とする

といったアプローチが模索されている。

PDACにおける腫瘍内不均一性の理解は、単なる分類学的知見ではなく、治療抵抗性を克服するための理論的基盤として極めて重要である。

PDACの進展速度と転移

膵管腺がん(PDAC)は、発症から臨床的に明らかな進行・転移に至るまでの速度が極めて速いことが特徴である。この「急速な進展性」は、PDACの予後不良を規定する本質的要因の一つであり、その生物学的理解は新規治療戦略の確立に直結する。

発症から転移までの進行が極めて早い

PDACは、画像診断で検出可能となった時点ですでに高い転移能を獲得している場合が多い。
臨床的には、原発巣が比較的小さい段階であっても、肝臓・腹膜・肺などへの微小転移が存在することが少なくない。

この特徴は、PDACが「局所進行を経てから転移するがん」というよりも、早期から全身性疾患として振る舞うがんであることを示唆している。
その結果、外科的切除後であっても再発率が非常に高く、補助化学療法を行っても長期生存が得られにくい。

転移は遺伝的進化の「後期」に発生する

興味深いことに、ゲノム解析や系統解析研究から、PDACの転移は無秩序に起こるわけではないことが示されている。
複数の研究により、

  • KRAS、TP53、CDKN2A、SMAD4などの主要ドライバー変異は原発巣形成の早期に獲得される
  • 転移能の獲得は、これらの変異が蓄積した遺伝的進化の後期段階で生じる

ことが明らかになっている。

すなわち、PDACは長い潜伏的進化期間を経てから、一気に高侵襲・高転移性フェーズへ移行するという進展様式をとる。この「臨床的には急速、分子的には段階的」という二面性が、PDAC理解を難しくしている要因である。

なぜ進展過程の理解が重要なのか

PDACの進展速度と転移様式を理解することは、治療開発において極めて重要である。
理由として、

  • 転移が成立した後では、局所治療や単剤治療の効果が限定的になる
  • 進展過程の特定段階(可塑性獲得、浸潤開始、微小転移形成)を標的とすることで、転移抑制が可能になる

といった点が挙げられる。

近年では、がん細胞自体の遺伝子変化だけでなく、

  • 腫瘍微小環境
  • ECM・間質との相互作用
  • 細胞状態の可塑性

が進展速度や転移能に深く関与することが示されつつある。
これらの要素を含めた**「進展過程全体の理解」**が、PDACに対する次世代治療戦略の基盤となる。

PDAC(膵管腺がん)の予後と臨床的課題

膵管腺がん(pancreatic ductal adenocarcinoma; PDAC)は、現在知られている固形がんの中でも最も予後不良ながんの一つであり、依然として臨床腫瘍学における大きな未解決課題である。

極めて不良な予後

PDACの5年生存率は約13%と報告されており、主要ながん種の中で最下位レベルに位置する。これは、同じ消化器がんである大腸がんや胃がんと比較しても著しく低い数値である。
この低い生存率は、診断時の進行度、治療抵抗性、早期転移傾向といったPDAC特有の生物学的性質が複合的に影響した結果である。

診断時に進行期である症例が大多数

PDAC患者の多くは、診断時点ですでに局所進行あるいは遠隔転移を伴う進行期にある。
その主な理由として、

  • 初期症状が非特異的(腹部不快感、体重減少など)
  • 有効なスクリーニング法が確立されていない
  • 腫瘍が後腹膜臓器に位置し、画像的に発見されにくい

といった点が挙げられる。
結果として、外科的切除が可能な「切除可能PDAC」は全体の20%未満にとどまる。

化学療法・免疫療法の効果が限定的

現在のPDAC治療の中心は化学療法であり、FOLFIRINOXやgemcitabine+nab-paclitaxelなどの多剤併用療法が標準治療として用いられている。しかし、これらの治療による生存期間延長効果は限定的であり、根治には至らないケースがほとんどである。

また、他がん種で大きな成功を収めている免疫チェックポイント阻害剤も、PDACでは例外的なMSI-high症例を除き、ほとんど効果を示さない。
これはPDACが、

  • 免疫抑制的な腫瘍微小環境を有すること
  • 線維性間質(desmoplasia)が強く、免疫細胞や薬剤の浸潤を妨げること

などに起因すると考えられている。

臨床的課題と今後の展望

PDACにおける最大の臨床的課題は、
**「早期診断法の確立」と「治療抵抗性を克服する新規治療戦略の開発」**である。

近年では、腫瘍微小環境、がん幹細胞性、代謝適応、免疫回避機構など、PDAC特有の生物学的特性に着目した研究が進展しており、従来治療と異なる切り口からの介入が模索されている。
これらの基礎研究と臨床研究の橋渡しが、PDACの予後改善に向けた鍵となる。

第8回:がん研究における空間オミックス応用(腫瘍微小環境、可塑性、免疫、転移、治療標的探索)

空間オミックス(Spatial Transcriptomics / Proteomics / Multi-omics)は、がん研究におけるブレイクスルー技術として急速に重要性を高めています。腫瘍は高度に不均一であり、細胞の位置関係・ニッチ構造・ECM の空間配置・免疫細胞の浸潤パターンなどが、がんの進展、治療抵抗性、転移能、免疫逃避に深く関わります。

従来のbulk解析やscRNA-seqでは得られなかった「空間的な生物学」が、がん研究の理解を大きく変えつつあります。本記事では、がん研究における空間オミックスの主要な応用を、最新知見をもとに体系的にまとめます。


1. 腫瘍微小環境(TME)の空間構造の解明

◆ 1-1. 腫瘍と周囲の正常組織の境界(tumor–normal interface)

空間オミックスによって、

  • 上皮細胞の異形成領域
  • CAF(Cancer-associated fibroblast)の局在
  • ECM(特にCOL4A1/A2、Laminin)の偏在
  • リンパ球の集簇 vs 排除領域
    が高解像度で可視化される。

Interface に局在する特異的細胞集団が、再発・侵襲・転移の前線となることが多く、そのニッチ特性(例えば ITGA3 高発現細胞の移動ニッチなど)は治療標的候補となり得る。


2. がん細胞の可塑性と遺伝子プログラムの空間的制御

scRNA-seq では可塑性(plasticity)の存在は同定できても、可塑性を誘導する “場所” は特定できなかった。

空間オミックスによって、

  • ECM の変化に応じて遺伝子発現が変化する場所
  • ストレスニッチ(低酸素、低栄養、剛性変化)
  • 上皮−間葉転換(EMT)領域の局在
  • Stem-like / progenitor-like state の出現位置

が明確になり、
可塑性は環境依存(niche-driven)である
という理解が強固になっている。

特にがん幹細胞ニッチ(COL4A1/2、Laminin、Integrin α3/β1 などの ECM 依存経路)は、肝内胆管がん・膵臓がん・大腸がんなどで共通する重要テーマである。


3. 免疫微小環境の空間的理解

がん免疫学の最大の課題の一つは、
「免疫細胞がどこに集まり、どこに入れないのか」
を理解することである。

空間オミックスでは以下が明確に見えてくる:

◆ 3-1. Immune Hot / Cold 領域の可視化

  • CD8 T細胞の集簇領域
  • M2-like macrophage の高密度領域
  • Treg の immunosuppressive hubs
  • 入り口となる血管ニッチ(HEV様構造)

◆ 3-2. 免疫排除現象の空間的原因

T細胞が腫瘍本体に入れず “周辺部に滞留する” 状況は、

  • ECM密度上昇
  • CAFの物理的バリア
  • TGF-β高発現領域
  • 高剛性ニッチ
    など空間的要因が多い。

◆ 3-3. 空間免疫レパートリー解析

TCR-seq と Spatial の統合により、
どのクローンがどの領域に偏在しているか がわかる。


4. インタラクションと近接(Cell–Cell interaction)の空間解析

細胞間相互作用を「実際の位置関係」と一緒に定量できるようになったことは、がん研究において極めて重要である。

例:

  • がん細胞–CAFの接触領域でのみ活性化する Integrin signaling
  • 血管近傍で増える Stem-like tumor cells(perivascular niche)
  • Treg–M2 macrophage の免疫抑制コア
  • 神経–がん細胞 interaction(neurotropic invasion)

空間近接解析(Ligand–Receptor × 距離情報)は、治療標的探索にも直結する。


5. 転移・浸潤・前転移ニッチの可視化

◆ 5-1. 原発巣の浸潤前縁(invasive front)

EMT、基底膜破壊、Integrin切換え(ITGA3、ITGA6など)が発生。
空間解析により、

  • 浸潤方向
  • 破壊された ECM の分布
  • 先導細胞(leader cells)
    が同定できる。

◆ 5-2. 前転移ニッチ(pre-metastatic niche)

肺・肝などの転移臓器で、

  • COL4A1/2 の局所上昇
  • Ly6G+ neutrophils の集積
  • ECM remodeling
    が空間的に発生し、腫瘍細胞の“定着地点”を作る。

6. 空間オミックスによる治療抵抗性の解析

特定の薬剤抵抗性クローンは、
空間的に偏在していることがある。

例:

  • 抗PD-1抵抗性:T-cell exclusion niche
  • 抗EGFR抵抗性:EGF-rich basal niche
  • 化学療法抵抗性:低酸素領域、ECM密度の高い領域
  • 抗VEGF抵抗性:代償的血管ニッチ形成

空間マルチオミックス(RNA + Protein + ECM + Metabolism)によって、抵抗性の原因が「細胞の性質」ではなく「場所の性質」であることが示唆されるケースが増えている。


7. 治療標的候補の空間的優先順位づけ

がん治療標的は、「どこに発現しているか」が極めて重要である。

空間オミックスは、

  • 腫瘍細胞で高発現
  • 正常組織では限定的
  • 特定の悪性ニッチで有意に集中

といった条件を満たす遺伝子を迅速にスクリーニングできる。

治療標的例:

  • ECM–Integrin axis(CD9–ITGA3–COL4A1/A2)
  • EMT基底膜破壊ニッチのMMP群
  • 免疫排除コアのTGF-β軸
  • 血管ニッチのCXCL12–CXCR4軸
    など。

まとめ:がん研究は「空間」で再解釈されはじめた

空間オミックスは、がん研究の各テーマを強力に再構築している。

腫瘍微小環境 → 二次元地図化
可塑性 → ニッチ依存性として理解
免疫 → 各細胞の流入経路・障壁を可視化
転移 → 進展ルートとニッチ形成を解析
治療抵抗性 → 場所依存の病態を解明
標的探索 → 空間的特異性で絞り込み

がんは「空間的に構造化された病」であり、
空間オミックスはその構造を直接読み解く唯一の方法になりつつある。

第7回:空間パスウェイ解析(Spatial Pathway Analysis)―― 空間的“機能地図”で組織の生物学を読み解く ――

空間オミックス解析が成熟するにつれ、単に
「どの細胞がどこにいるか」 だけではなく、
「どのパスウェイがどこで活性化しているか」
という “機能的な空間” を理解することが主要テーマになっています。

空間パスウェイ解析とは、空間位置情報と遺伝子発現データを用いて
組織内のパスウェイ活性を定量化し、空間的パターンとして可視化する技術
を総称します。


1. 空間パスウェイ解析が必要な理由

パスウェイ活性の空間分布は、以下のような生物学的問いに直接答えます。

  • 腫瘍周辺でどのシグナルが活性化しているか?
  • 免疫細胞が集まる領域でどの経路が作動しているか?
  • 破壊された組織の周辺で代償的シグナルが生じているか?
  • 腫瘍幹細胞ニッチはどんなパスウェイで特徴づけられるか?

組織の状態はパスウェイ活性の空間構造によって規定されるため、
空間パスウェイ解析=空間生物学の“機能的な心臓部” と言えます。


2. 空間パスウェイ解析で使われる主要手法


① GSVA(Gene Set Variation Analysis)

  • 発現行列を gene set(KEGG、Hallmark 等)に基づきスコア化
  • 非パラメトリック手法でロバスト
  • VisiumやSlide-seqのようなスポットデータにも利用可能

利点:解釈しやすい・安定
注意点:解像度の低いスポットではノイズに注意。


② AUCell(Area Under Curve cell ranking)

  • 特定の遺伝子セットが「発現上位に入るか」を定量化
  • 単一細胞レベルの空間データ(Xenium, CosMx)と相性抜群

利点:dropout耐性が高い
用途:細胞ステートの空間評価


③ PROGENy(pathway-responsive genes)

  • 幅広い上流シグナル(MAPK、PI3K、TNFα、TGF-βなど)を
    実験的に定義された下流の反応性遺伝子セット に基づいて推定
  • パスウェイ推定の精度が非常に高い

利点:解釈性と精度が両立
用途:がんの空間シグナル推定に最適


④ NMF(非負値行列分解)を使った“機能モジュール抽出”

  • 空間発現データを NMF で分解し、
    潜在的な機能モジュール(functional programs) を抽出
  • 得られたモジュールを gene set enrichment で注釈付け

利点:未知のパスウェイや新規モジュールの発見につながる
用途:がん特異的な“プログラム”の空間構造発見


⑤ 空間自己相関統計(Moran’s I, Geary’s C)

パスウェイスコアの空間連続性(clustering)を評価し、
活性領域(hotspot) を同定できる。

例:

  • WNT高活性領域
  • Hypoxiaニッチ
  • EMTドメイン
  • IL6/JAK/STAT 活性の免疫抑制領域

利点:機能ドメインを客観的に抽出できる。


3. 空間パスウェイ解析のワークフロー


ステップ1:空間発現データの整形

  • スポット or 細胞 × 遺伝子の発現行列
  • 正規化・スケーリング
  • デコンボリューション結果と統合も可

ステップ2:パスウェイスコアの計算

ツール例:

  • GSVA / AUCell
  • PROGENy
  • Seurat: AddModuleScore
  • Squidpy: enrichment

ステップ3:スコアの空間マッピング

可視化例:

  • 空間ヒートマップ
  • スポット毎のパスウェイスコア
  • クラスタ境界への重畳

ステップ4:空間統計で領域特定

  • Moran’s I(空間クラスタリングの有無)
  • Hotspot解析(局所的高活性の同定)

ステップ5:生物学的解釈

  • がん浸潤フロントで EMT + TGF-β が高い
  • 腫瘍中心で Hypoxia + Glycolysis
  • T細胞集積領域で IFNγ 活性が顕著
  • CAFニッチで collagen synthesis + integrin signaling

「どの領域で何が起きているか」をパスウェイレベルで理解する。


4. 代表的な応用シナリオ(がん研究)


① 腫瘍浸潤フロント(invasion front)の機能構造

  • EMT
  • ECMリモデリング
  • Integrin/FAK
    → 空間パスウェイががん細胞の浸潤を説明。

② 免疫抑制領域(immune-suppressive niche)の分離

  • IL6–STAT3
  • TGF-β
  • PD-1 signaling
    → T cell exclusion の空間的根拠を示す。

③ 腫瘍幹細胞ニッチの活性シグナル

  • WNT
  • NOTCH
  • Hedgehog
    → 位置特異的な幹細胞性の維持メカニズムを可視化。

④ 代謝空間地図(metabolic spatial map)

  • Glycolysis
  • Oxidative phosphorylation
  • Hypoxia
    → 腫瘍中心と周辺部の代謝勾配を定量化。

5. 注意点:パスウェイ解析の限界


① パスウェイの重なり

多くの遺伝子が複数のパスウェイに属するため、
「どの経路が本質か」慎重に読む必要がある。


② スポットの混合の影響

Visiumではスポットが大きいため、
cell mixture 由来のパスウェイスコア になりがち。
→ デコンボリューションとの併用が必須。


③ パスウェイの方向性が読めない

mRNAレベルでは活性の方向(ON/OFF)や機能的結果は読めないことも多い。


まとめ

空間パスウェイ解析は、空間オミックスデータを
“機能的な地図” として可視化する強力な解析です。

  • GSVA / AUCell / PROGENy などでパスウェイスコア化
  • 空間統計(Moran’s I)で機能領域を抽出
  • NMFで潜在機能モジュールを探索
  • がん研究では浸潤、免疫抑制、代謝、幹細胞ニッチの解析に重要

空間構造 × パスウェイ という2軸を融合することで、
病態の深い“意味”にたどり着くことが可能になります。

第6回:細胞近接解析(Cell–Cell Proximity Analysis)── 空間的相互作用を可視化し「組織構造の力学」を読む──

デコンボリューションにより各スポットの細胞構成が推定されると、次に重要となるのが
「細胞同士がどの位置でどの程度近接しているか」 を解析するステップです。

細胞近接解析は、組織内の ニッチ構造、免疫制御、がん-ストローマクロストーク、再生ニッチ などを理解する上で不可欠であり、空間オミックス研究の中心的解析になっています。


1. 細胞近接解析の目的

細胞近接(proximity)解析では、以下の生物学的問いを解くための定量化を行います。

  • どの細胞型同士が空間的に隣接しているか
  • がん細胞はどの細胞と preferential に接触しているか
  • 免疫細胞はどこで集積し、どこに排除されているか
  • niche はどこにあり境界はどう形成されるのか
  • 空間構造が病態(腫瘍悪性度、炎症、線維化)とどう関連するか

これらを数理的に扱うことで、空間的な“細胞社会”をデータ化する ことが可能になります。


2. 代表的な細胞近接解析アプローチ


① 距離ベース(distance-based proximity)

各スポット位置を座標として扱い、
細胞型 A と B の距離分布を比較する方法。

分析例:

  • AとBの最近傍距離(nearest neighbor distance, NND)
  • 平均距離 / 中央距離
  • Ripley’s K関数またはL関数(空間統計的クラスタリング)

用途:
がん細胞—線維芽細胞の偏った局在、免疫細胞の排除領域の検出など。


② 隣接スポットベース(adjacent spot analysis)

Visiumのような格子状データでは
六角形格子での隣接スポット(neighbors)を利用 できます。

例:

  • 各スポットにおける「隣接スポットの細胞型構成」
  • 隣接細胞の出現頻度をカウントし、統計的に enrichment を評価

用途:
TMEの「細胞の近接パターン」を可視化するのに広く利用。


③ 細胞型ペアの相関(co-occurrence analysis)

スポットごとの細胞型割合の相関をとり、
「同じ空間で出現しやすい細胞ペア」を見つける。

例:

  • CAF ↔️ M2マクロファージが高頻度で共局在
  • B細胞 ↔️ T細胞がリンパ濾胞を構成

用途: ニッチの定量化。


④ グラフネットワーク(graph-based spatial network)

スポットをノード、隣接関係をエッジとしたネットワークを構築し、
細胞型間の“つながり”をネットワークとして解析。

手法例:

  • RCTD, Squidpy の spatial_neighbors
  • セントラリティ解析(betweenness, degree)

用途:

  • がん浸潤フロントの構造化
  • 免疫細胞の交通路の発見
  • ストローマのネットワーク同定

⑤ 空間 ligand–receptor × 近接解析(高度応用)

単独の近接ではなく、
近接 + 発現量 + ligand–receptor の統合 が最新の実践。

例:

  • CellPhoneDB または NicheNet を空間加重で実装
  • 近接している細胞ペアのみで L–R を評価
  • 空間的に解釈可能な細胞間コミュニケーションモデルを生成

用途:

  • T-cell exhaustion の誘導ニッチ
  • CAF → 腫瘍の増殖促進シグナル
  • 免疫抑制性ニッチの同定

3. 実際の解析ワークフロー


ステップ1:細胞型マップの取得(第5回)

  • デコンボリューション
  • または単一細胞解像度(Xenium、CosMx)のデータ

ステップ2:空間隣接グラフを作る

ツール例:

  • Squidpy(python):空間グラフ構築の標準
  • Seurat:SeuratWrapper + RCTD など
  • Nobias:距離行列から独自構築

ステップ3:細胞ペアの近接スコアを計算

手法:

  • 距離の最小値・平均値
  • グラフ近接(network connectivity)
  • キー細胞(例:腫瘍細胞)を中心とした距離ヒートマップ

ステップ4:統計モデルで有意性を検定

  • permutation test
    → 細胞型の空間配置をランダムにシャッフル
    → 実測の近接度が有意に高い/低いかを評価

ステップ5:可視化(interpretation)

例:

  • 近接頻度ヒートマップ
  • 細胞ペアのネットワークプロット
  • がん浸潤フロントに沿った近接変化(line plot)
  • ニッチの地図化(cluster + proximity)

4. 近接解析の注意点


① 解像度依存の誤解釈

Visiumではスポットが大きく、
近接というより“共局在”の可能性もある。
→ デコンボリューションの精度が決定的に重要。


② 空間バッチ効果

切片位置で組織構造が変わるため、
単純比較は危険。


③ 細胞数の希少性の問題

わずかな細胞数が近接パターンを左右するので注意。


④ 近接 = 相互作用とは限らない

近いだけで相互作用があるとは限らない。
第7回の「空間パスウェイ解析」と統合して解釈する必要がある。


5. がん研究での応用例


■ 免疫細胞の排除構造(immune exclusion)

腫瘍中心部にT細胞が入れない構造を定量化。


■ CAF と腫瘍細胞の近接ネットワーク

線維化ニッチ、薬剤耐性ニッチの定量化。


■ 腫瘍幹細胞ニッチの位置特定

特定ECM・線維芽細胞・免疫細胞との結合構造。


■ 転移の前適応ニッチ

肝臓や肺での「先行微小環境」の空間構造解析。


まとめ

細胞近接解析は、空間オミックス解析において
“どの細胞同士が空間的に関係を持っているか” を定量化する技術です。

  • 距離解析
  • 隣接スポット解析
  • ネットワーク解析
  • ligand–receptor × 空間統合
  • ニッチの境界検出

これらを組み合わせることで、
組織構造の力学 を理解し、がんや炎症、再生の本質的プロセスを読み解くことができます。

第5回:scRNA-seq統合(デコンボリューション)─ 空間データに“細胞型情報”を与える核心技術─

空間トランスクリプトミクス(ST)の多くは、1スポットが複数の細胞を混在した バルク的なシグナル を持っています。
そのため、「スポット内にどの細胞型がどれくらい存在するか」 を推定する技術が不可欠です。

この推定が デコンボリューション(Deconvolution) であり、
scRNA-seq の高解像度データを参照しながら ST の解釈力を一気に引き上げます。


1. デコンボリューションが必要な理由

■ 1スポット=単一細胞ではない(Visiumでは直径約55 µm)

  • 実際には 5〜20個の細胞が混在
  • mRNA量も細胞ごとに大きく異なるため、細胞型の混合比は不明

■ scRNA-seq は「細胞型のライブラリ」を提供する

  • 各細胞型固有の遺伝子発現プロファイル
  • ST のスポット発現は、これらプロファイルの線形和とみなせる

→ scRNA-seq を教師データとして ST を分解するのがデコンボリューション


2. デコンボリューションの原理:線形モデル

ST スポットの発現ベクトル Y は、
scRNA-seq で得られた細胞型の平均発現 X と、混合比 W の積で表される:YXWY \approx XWY≈XW

  • Y:STスポット(遺伝子 × スポット)
  • X:scRNA-seq の「細胞型 × 遺伝子」発現
  • W:推定したい「スポット × 細胞型構成比」

各手法で最適化方法は異なるが、本質的にはこの線形モデルを解く問題。


3. 主要デコンボリューション手法(比較付き)


🔹 Cell2location(scVIベースのベイズモデル)

現時点で最も広く使われる手法の一つ。

  • scRNA-seq と ST のバッチ差を階層ベイズでモデル化
  • 空間内で細胞が存在しうる「確率密度」を推定
  • 空間内ニッチ解析にも強い

強み:発現量差やバッチ補正にきわめて強い
弱み:GPU が推奨、計算が重い


🔹 RCTD(Robust Cell Type Decomposition)

  • scRNA-seq を参照し、ST スポットの細胞型混合比を推定
  • シンプルな統計モデルでロバスト

強み:高速で導入が簡単
弱み:細胞型が似ている場合は分離が難しい


🔹 SPOTlight(NMF + Deconvolution)

  • 事前に NMF(行列分解)で特徴マトリクスを作る
  • Seuratとの統合が容易

強み:使いやすく、多くのワークフローに組み込みやすい
弱み:NMFの事前処理が結果に影響


🔹 Tangram(深層学習ベース)

  • scRNA-seq の細胞を ST へ “マッピング”
  • 空間的に最も整合的な細胞配置を探す
  • 細胞単位で座標を割り当てる点が革新的

強み:単一細胞空間再構築ができる
弱み:解釈性は限定的、ハイリソ計算が必要


🔹 DestVI(scVIフレームワーク)

  • スポット中の細胞型だけでなく
    細胞型内部の状態変化(substates)も推定
  • 病態モデルで強みがある

強み:細胞型の“状態”まで空間で解析可能
弱み:実装・解釈がやや難しい


4. デコンボリューション実装の実際(解析フロー)


ステップ 1:scRNA-seq で細胞型アノテーション

  • クラスタリング(Seurat/Scanpy)
  • マーカー遺伝子で精密に細胞型同定
  • サブタイプ整理(例:腫瘍細胞クラスターは1つにまとめる等)

ステップ 2:scRNA-seq 発現マトリクスを「参照」化

よくやる処理:

  • 低品質細胞の除去
  • 細胞型ごとの pseudobulk を作成
  • 必要に応じて DEGs を抽出

ステップ 3:ST データの前処理

  • 正規化
  • スポット品質のフィルタリング
  • 高可変遺伝子の選択

ステップ 4:デコンボリューション実行

例:Cell2location(python/scanpy)
例:RCTD、SPOTlight(R/Seurat)


ステップ 5:可視化

  • 細胞型存在確率ヒートマップ
  • スポット上の細胞型割合マップ
  • 隣接する細胞の量的関係を見る(第6回の内容につながる)

5. デコンボリューションの注意点(実験計画にも重要)


1. scRNA-seq の細胞型バイアス

腫瘍などでは酵素処理が強いと、上皮系が生き残りにくい
→ scRNA-seq の参照に上皮が少ない → デコンボリューションに影響


2. scRNA と ST のプラットフォーム差

  • 10x scRNA vs 10x Visium は比較的相性良い
  • Smart-seq2 vs Visium はバッチ差が大きい
  • Cell2location のようなバッチ補正が必須

3. 遺伝子の「ドロップアウト」

scRNA-seq はドロップアウトが多いため、
低発現遺伝子を使うと誤推定される可能性がある


4. 空間的に“存在しない”細胞が混ざるケース

例:血液細胞、脈管系細胞は局所的にしか存在しない
→ モデルが誤って全域に割り当てることがある
→ cell2location が比較的解決しやすい


6. デコンボリューションで研究がどう変わるか?(応用例)


■ がん腫瘍微小環境(TME)の構築図が得られる

  • CAF、内皮、マクロファージなどの局在
  • 腫瘍細胞の分布と相互作用

■ niche の境界が分かる

例:

  • 肝臓:門脈域 vs 中間帯 vs 中心静脈帯
  • 腸管:crypt vs villus

■ scRNA-seq では得られない spatial signature

デコンボリューションは
「細胞型 × 空間位置」の新しい軸を作る
→ 第6回の「近接解析」、第7回の「空間パスウェイ解析」へ直接つながる


まとめ

デコンボリューションとは:

  • 空間データのスポットに対して
    「どの細胞型がどれだけ存在するか」を推定する技術
  • scRNA-seq を参照として用い、線形モデル or ベイズモデルで推定
  • cell2location、RCTD、SPOTlight、Tangram、DestVI など多数の手法がある
  • 空間生物学の基盤であり、
    TME解析、ニッチ解析、がん幹細胞探索、臓器アトラス構築などに必須

第4回:空間オミックスの実験ワークフロー(前処理〜データ化まで)—Visium・Slide-seq を中心に“現場で本当に困るポイント”を整理—

空間オミックスは「データ解析が大変」という印象が強いですが、実際に最も失敗が多いのは実験の前処理段階です。
RNA品質、組織の固定条件、透過処理、逆転写条件——これらはいずれも空間情報の忠実度に直結します。

本記事では、Visium と Slide-seq をモデルケースとして、実験全体の流れと重要ポイントを詳しくまとめます。


1. 全体フローの俯瞰図

空間オミックスは、基本的に以下の 4 ステップで進みます。

  1. 組織の前処理(固定・凍結・切片作製)
  2. スライドへの貼り付け → 透過処理 → 逆転写
  3. ライブラリ作製(空間バーコード付き)
  4. シーケンス → 画像とのアラインメント → カウント行列化

Visium と Slide-seq は計測原理が異なりますが、本質的な流れは同じです。


2. 組織前処理:最も結果を左右するステップ

2-1. 凍結 vs FFPE:RNA品質は凍結が圧倒的に有利

  • 凍結(Fresh-frozen)
    • 利点:RNAが良好、遺伝子網羅性が高い
    • 欠点:形態保持が難しい、クライオセクション技術が必要
  • FFPE
    • 利点:臨床検体で普及、形態が安定
    • 欠点:RNA断片化 → 特にキャプチャ型では網羅性低下
    • Visium FFPE, CosMx, Xenium のように FFPE対応プラットフォームは増加中

研究目的が“網羅的な発現”であれば、可能な限り凍結を推奨します。


2-2. 切片作製(5–10 μmが標準)

  • Visium:10 μmが一般的
  • Slide-seq:10 μm
  • イメージング型(MERFISH など):通常 5–10 μm

失敗例:切片が厚すぎる

→ mRNAがプローブや基板に届かず、キャプチャ効率が下がる。

失敗例:切片が薄すぎる

→ 組織の形態が崩れ、細胞境界が不明瞭になる。


2-3. 組織固定・染色(H&E が標準)

  • Visium:
    • 染色前の methanol fixation が標準
  • Slide-seq:
    • 凍結切片をビーズ表面に貼りつけ
    • その後、methanol 固定 → 透過処理(permeabilization)

染色画像は後のアラインメント・セグメンテーションに必須なので、明瞭な H&E 画像を確保することが極めて重要です。


3. 透過処理(Permeabilization):成功の“分岐点”

細胞膜を壊して mRNA を取り出す工程ですが、
“過剰処理”と“処理不足”が直接ライブラリ品質に反映されます。


3-1. Visium の場合

  • スライド上に各組織で最適な透過時間があり、**Time course assay(最適化キット)**で決定する
  • 透過が不十分 → キャプチャされる mRNA が少ない
  • 透過しすぎ → RNA が拡散し、空間解像度が損なわれる

最適化せずに本番実験を行うと、スポット毎の UMI が極端に低くなる事故が非常に多いです。


3-2. Slide-seq の場合

  • マイクロビーズ表面のオリゴで mRNA を捕まえるため
    透過工程の効率=ビーズ再構成クオリティに直結
  • 透過不足 → RNA 回収量が激減
  • 透過過剰 → RNA が近隣ビーズに広がり“空間ブレ”が発生

Slide-seq は Visium と比べても“工程依存性が強い”ため、熟練者のプロトコールが事実上の標準になっています。


4. 逆転写・ライブラリ作製

4-1. 空間バーコードの取り込み

  • Visium:スポットごとにユニークバーコード
  • Slide-seq:ビーズごとのバーコード(後で座標を再構築)
  • RNA → cDNA → PCR → ライブラリ準備

逆転写効率は
RNA品質 × 透過条件 × 酵素の効率で決まります。

典型的なQC指標

  • ライブラリサイズ分布(Bioanalyzer)
  • PCRサイクル数
  • cDNAの総量
  • Spike-in の比率

5. シーケンス条件(読長・深度)

5-1. Visium

  • PE 100–150 bp
  • 1スライドあたり3–6億リードが推奨
  • 深度が浅いとスポットの発現が sparse になり、細胞型推定精度が落下

5-2. Slide-seq / Slide-seqV2

  • より高解像度(ビーズスケール)のため、Visiumより深度が必要
  • 1スライド 5–10 億リードが一般的
  • 実際には「深いほど良い」と言われる領域

6. 画像とのアラインメント(空間情報の回復)

6-1. Visium の場合

  • H&E 画像を取得
  • スポット配置は固定なので、
    Space Rangerが自動で位置合わせ
  • 正確なアラインメントは、細胞型投影の品質に直結

6-2. Slide-seq の場合(最大の特徴)

  • ビーズアレイをまず画像として取得 → 座標再構成が必要
  • Decode(ビーズバーコードの位置決定)→ マッピング
  • この reconstruction が精度低いと、すべての解析の精度が落ちる

Slide-seq の成功率は、この工程が 7〜8割を占めると言って過言ではありません。


7. カウント行列(gene × spot/bead)の生成

完成したデータは、最終的に

  • Visium:スポット × 遺伝子
  • Slide-seq:ビーズ × 遺伝子

のマトリクスとして出力されます。

この段階ではまだ“解析可能な空間データ”の入口にすぎません。
次回(第5回)はここから、

  • scRNA-seqとの統合
  • セルタイプ推定
  • デコンボリューション
  • ノイズフィルタリング
  • 正規化と空間平滑化

といった解析パイプラインを詳しく扱います。


まとめ

  • 空間オミックスの成功の8割は、前処理(試料・切片・透過)が支配
  • Visiumは“スポット固定”、Slide-seqは“ビーズ再構築”が鍵
  • シーケンス深度は十分に確保すべき(浅いと解析不能)
  • 画像アラインメントは空間解析の基礎になる