空間オミックスは「データ解析が大変」という印象が強いですが、実際に最も失敗が多いのは実験の前処理段階です。
RNA品質、組織の固定条件、透過処理、逆転写条件——これらはいずれも空間情報の忠実度に直結します。
本記事では、Visium と Slide-seq をモデルケースとして、実験全体の流れと重要ポイントを詳しくまとめます。
1. 全体フローの俯瞰図
空間オミックスは、基本的に以下の 4 ステップで進みます。
- 組織の前処理(固定・凍結・切片作製)
- スライドへの貼り付け → 透過処理 → 逆転写
- ライブラリ作製(空間バーコード付き)
- シーケンス → 画像とのアラインメント → カウント行列化
Visium と Slide-seq は計測原理が異なりますが、本質的な流れは同じです。
2. 組織前処理:最も結果を左右するステップ
2-1. 凍結 vs FFPE:RNA品質は凍結が圧倒的に有利
- 凍結(Fresh-frozen)
- 利点:RNAが良好、遺伝子網羅性が高い
- 欠点:形態保持が難しい、クライオセクション技術が必要
- FFPE
- 利点:臨床検体で普及、形態が安定
- 欠点:RNA断片化 → 特にキャプチャ型では網羅性低下
- Visium FFPE, CosMx, Xenium のように FFPE対応プラットフォームは増加中
研究目的が“網羅的な発現”であれば、可能な限り凍結を推奨します。
2-2. 切片作製(5–10 μmが標準)
- Visium:10 μmが一般的
- Slide-seq:10 μm
- イメージング型(MERFISH など):通常 5–10 μm
失敗例:切片が厚すぎる
→ mRNAがプローブや基板に届かず、キャプチャ効率が下がる。
失敗例:切片が薄すぎる
→ 組織の形態が崩れ、細胞境界が不明瞭になる。
2-3. 組織固定・染色(H&E が標準)
- Visium:
- 染色前の methanol fixation が標準
- Slide-seq:
- 凍結切片をビーズ表面に貼りつけ
- その後、methanol 固定 → 透過処理(permeabilization)
染色画像は後のアラインメント・セグメンテーションに必須なので、明瞭な H&E 画像を確保することが極めて重要です。
3. 透過処理(Permeabilization):成功の“分岐点”
細胞膜を壊して mRNA を取り出す工程ですが、
“過剰処理”と“処理不足”が直接ライブラリ品質に反映されます。
3-1. Visium の場合
- スライド上に各組織で最適な透過時間があり、**Time course assay(最適化キット)**で決定する
- 透過が不十分 → キャプチャされる mRNA が少ない
- 透過しすぎ → RNA が拡散し、空間解像度が損なわれる
最適化せずに本番実験を行うと、スポット毎の UMI が極端に低くなる事故が非常に多いです。
3-2. Slide-seq の場合
- マイクロビーズ表面のオリゴで mRNA を捕まえるため
透過工程の効率=ビーズ再構成クオリティに直結 - 透過不足 → RNA 回収量が激減
- 透過過剰 → RNA が近隣ビーズに広がり“空間ブレ”が発生
Slide-seq は Visium と比べても“工程依存性が強い”ため、熟練者のプロトコールが事実上の標準になっています。
4. 逆転写・ライブラリ作製
4-1. 空間バーコードの取り込み
- Visium:スポットごとにユニークバーコード
- Slide-seq:ビーズごとのバーコード(後で座標を再構築)
- RNA → cDNA → PCR → ライブラリ準備
逆転写効率は
RNA品質 × 透過条件 × 酵素の効率で決まります。
典型的なQC指標
- ライブラリサイズ分布(Bioanalyzer)
- PCRサイクル数
- cDNAの総量
- Spike-in の比率
5. シーケンス条件(読長・深度)
5-1. Visium
- PE 100–150 bp
- 1スライドあたり3–6億リードが推奨
- 深度が浅いとスポットの発現が sparse になり、細胞型推定精度が落下
5-2. Slide-seq / Slide-seqV2
- より高解像度(ビーズスケール)のため、Visiumより深度が必要
- 1スライド 5–10 億リードが一般的
- 実際には「深いほど良い」と言われる領域
6. 画像とのアラインメント(空間情報の回復)
6-1. Visium の場合
- H&E 画像を取得
- スポット配置は固定なので、
Space Rangerが自動で位置合わせ - 正確なアラインメントは、細胞型投影の品質に直結
6-2. Slide-seq の場合(最大の特徴)
- ビーズアレイをまず画像として取得 → 座標再構成が必要
- Decode(ビーズバーコードの位置決定)→ マッピング
- この reconstruction が精度低いと、すべての解析の精度が落ちる
Slide-seq の成功率は、この工程が 7〜8割を占めると言って過言ではありません。
7. カウント行列(gene × spot/bead)の生成
完成したデータは、最終的に
- Visium:スポット × 遺伝子
- Slide-seq:ビーズ × 遺伝子
のマトリクスとして出力されます。
この段階ではまだ“解析可能な空間データ”の入口にすぎません。
次回(第5回)はここから、
- scRNA-seqとの統合
- セルタイプ推定
- デコンボリューション
- ノイズフィルタリング
- 正規化と空間平滑化
といった解析パイプラインを詳しく扱います。
まとめ
- 空間オミックスの成功の8割は、前処理(試料・切片・透過)が支配
- Visiumは“スポット固定”、Slide-seqは“ビーズ再構築”が鍵
- シーケンス深度は十分に確保すべき(浅いと解析不能)
- 画像アラインメントは空間解析の基礎になる