はじめに
細胞は外部からの刺激を受け、シグナル伝達経路を介して遺伝子発現や細胞周期、アポトーシスを制御しています。
がんでは、これらの経路のいずれかが恒常的に活性化または抑制され、無制限な増殖や浸潤・転移が促進されます。
1. RAS–RAF–MEK–ERK(MAPK)経路
役割
- 細胞増殖・分化・生存に関与
- 受容体型チロシンキナーゼ(EGFR, HER2など)からシグナルを受けて活性化
主な構成因子
- RAS(KRAS, NRAS, HRAS)
- RAF(BRAF)
- MEK1/2
- ERK1/2
がんでの異常
- KRAS変異:大腸がん、膵がん、肺腺がんで高頻度
- BRAF V600E変異:悪性黒色腫、甲状腺乳頭がん、大腸がん
標的治療例
- BRAF阻害薬(ベムラフェニブ、ダブラフェニブ)
- MEK阻害薬(トラメチニブ)
2. PI3K–AKT–mTOR経路
役割
- 細胞生存、成長、代謝調節
- 栄養や成長因子応答の中核経路
主な構成因子
- PI3K(p110α, p110β)
- AKT(PKB)
- mTORC1, mTORC2
がんでの異常
- PIK3CA遺伝子変異:乳がん、大腸がん
- PTEN欠失:前立腺がん、脳腫瘍
- mTOR過剰活性化:腎がんなど
標的治療例
- mTOR阻害薬(エベロリムス、テムシロリムス)
- PI3K阻害薬(アルペリシブ)
3. p53経路
役割
- DNA損傷応答、アポトーシス誘導、細胞周期停止
- 「ゲノムの守護者」と呼ばれる
主な構成因子
- p53(TP53遺伝子)
- MDM2(p53抑制因子)
- p21(CDK阻害因子)
がんでの異常
- TP53遺伝子変異:全がんの約50%以上で認められる
- MDM2過剰発現:p53機能抑制
標的治療例
- MDM2阻害薬(開発中)
- p53再活性化薬(APR-246など、臨床試験段階)
4. Wnt/βカテニン経路
役割
- 胚発生、組織幹細胞維持、細胞運命決定
- βカテニン蓄積による遺伝子発現調節
主な構成因子
- Wntリガンド
- Frizzled受容体
- APC, GSK3β, βカテニン
がんでの異常
- APC遺伝子変異:家族性大腸腺腫症、大腸がん
- CTNNB1(βカテニン)変異:肝細胞がん
標的治療例
- 直接的阻害薬は未確立だが、阻害分子(Porcupine阻害薬など)開発中
5. Notch経路
役割
- 細胞分化、血管新生、幹細胞維持
- 隣接細胞間シグナルで活性化
主な構成因子
- Notch受容体(Notch1〜4)
- リガンド(Jagged, Delta-like)
がんでの異常
- Notch活性化変異:T細胞性急性リンパ性白血病(T-ALL)
- 活性低下:皮膚がん
標的治療例
- γセクレターゼ阻害薬(Notchシグナル阻害)
6. Hedgehog経路
役割
- 発生過程の形態形成、組織修復
- 成人では限定的に活性
主な構成因子
- Hedgehogリガンド(Sonic, Indian, Desert)
- Patched受容体
- Smoothened(SMO)
- GLI転写因子
がんでの異常
- PTCH1変異:基底細胞がん(皮膚)
- Hedgehog過剰活性:髄芽腫
標的治療例
- SMO阻害薬(ビスモデギブ、ソニデギブ)
7. 代表的シグナル経路と関連がんまとめ表
経路 | 主な構成因子 | 主な異常 | 関連がん | 標的治療例 |
---|---|---|---|---|
RAS–MAPK | KRAS, BRAF, MEK, ERK | KRAS変異, BRAF変異 | 大腸, 膵, 肺, 黒色腫 | BRAF阻害, MEK阻害 |
PI3K–AKT–mTOR | PIK3CA, AKT, mTOR, PTEN | PIK3CA変異, PTEN欠失 | 乳, 前立腺, 腎 | mTOR阻害, PI3K阻害 |
p53 | TP53, MDM2, p21 | TP53変異 | 多くの固形がん, 白血病 | MDM2阻害(開発中) |
Wnt/βカテニン | Wnt, Frizzled, APC, βカテニン | APC変異, CTNNB1変異 | 大腸, 肝細胞 | Porcupine阻害(開発中) |
Notch | Notch1〜4, Jagged | Notch活性化変異 | T-ALL, 皮膚がん | γセクレターゼ阻害 |
Hedgehog | PTCH1, SMO, GLI | PTCH1変異 | 基底細胞がん, 髄芽腫 | SMO阻害 |
まとめ
がんにおけるシグナル伝達経路の異常は、増殖の暴走・細胞死回避・転移促進などを引き起こします。近年は、これらの経路を標的とした分子標的薬が急速に発展しており、ゲノム解析に基づく**精密医療(Precision Medicine)**が現実化しています。
免責事項
本記事は教育・情報提供を目的としたものであり、診断・治療の参考情報ではありません。治療方針は必ず専門医と相談してください。