はじめに
細胞外マトリックス(extracellular matrix: ECM)は、細胞を取り囲む支持構造であると同時に、シグナル伝達を介して細胞の運命や性質を大きく規定します。特にがんや発生の文脈で注目されるのが、ECMと**上皮間葉転換(epithelial-mesenchymal transition: EMT)**との関わりです。EMTは細胞が上皮的性質を失い、間葉系細胞のような移動能や浸潤性を獲得する現象で、発生・創傷治癒・がん転移など多様な生物学的プロセスに関与します。
ECMの構成と機能
ECMはコラーゲン、ラミニン、フィブロネクチン、エラスチン、プロテオグリカンなどで構成され、以下の役割を担います。
- 構造的支持:細胞に足場を提供する。
- シグナル制御:インテグリンや受容体型チロシンキナーゼを介して細胞内経路を活性化する。
- 組織の機械的特性:硬さ・弾性が細胞分化や運命決定に影響を与える。
EMTの分子機構
EMTでは、細胞は以下のような変化を示します。
- 上皮性マーカーの低下:E-cadherinの発現抑制。
- 間葉系マーカーの増加:N-cadherin、ビメンチンの発現上昇。
- 転写因子の活性化:Snail, Slug, Twist, ZEB1/2 などが中心的役割を果たす。
これらの変化は、TGF-β、Wnt、Notch、Hippo-YAP/TAZなどのシグナル経路と密接に結びついています。
ECMとEMTのクロストーク
- インテグリンシグナル
- ECM成分とインテグリンの結合がFAK(focal adhesion kinase)やSrcを介して細胞骨格を再編成し、EMTを促進します。
- ECMの硬さと力学的刺激
- 硬い基質はYAP/TAZ経路を活性化し、EMT関連遺伝子を誘導します。がんの線維化微小環境はこのメカニズムで浸潤性を高めます。
- ECMリモデリング
- MMP(マトリックスメタロプロテアーゼ)による分解産物がTGF-βシグナルを増幅し、EMTを強化します。
- 特定ECM分子の役割
- フィブロネクチン:細胞移動を促進し、EMTのマーカーとしても利用される。
- ラミニン:細胞の極性維持に関与し、その減少はEMTを誘導する。
- コラーゲンI:線維化組織に多く、がん細胞のEMTを誘発する。
生理・病理における意義
- 発生:神経堤細胞の移動や心臓発生における必須プロセス。
- 創傷治癒:線維芽細胞への移行を介して組織修復に寄与。
- がん:腫瘍細胞がECMシグナルを利用してEMTを起こし、浸潤・転移能を獲得。特に肝臓、膵臓、胆道がんではECMリモデリングとEMTの結びつきが予後不良と相関する。
まとめ
ECMは単なる細胞の足場ではなく、細胞の表現型を積極的に制御する「情報場」として機能します。EMTはその代表的な例であり、ECMの種類・硬さ・リモデリングの状態が、細胞の浸潤性や幹細胞性を左右します。今後は、ECM-EMT軸を標的とした新しい抗がん治療や線維化抑制療法の開発が期待されます。